『サーキットの鹿』公演に寄せて

 先日、『パイド・パイパー』(ネビル・シュート著/池 央耿訳/創元推理文庫)を読んだ。宮部みゆきが絶賛しているので紹介するまでもないのだが、面白かったので一言。
 第2次世界大戦時、スイスーフランス国境のある村へ釣りにやって来たイギリス人老紳士がドイツ軍侵攻に巻き込まれ、道中で次々と子供を預かりながら母国に帰るという話だ。
 状況は非常に危機的である。若い男女を主人公にすれば、スリリングで(たぶん)セクシーな作品になるだろう。ジョージ・クルーニーだったら、拳銃をガンガンぶっぱなすだろう。トミー・リー・ジョーンズなら、得体の知れない宇宙生物と闘い、ユアン・マクレガーはアナキン・スカイウォ−カーに手を焼き・・・。
 しかし、旅の一行は老人と子供たちである。絶体絶命の危機でも、まごつくばかりで前に進まない。少し進むとくたびれる。
 それでも彼らは突破していく。キーワードは「引き受ける」だ。老人は、子供を引き受けることでトラブルをも引き受け、しかし、引き受けることで局面を打開していく。単純明快だが非常に上手い「仕掛け」だ。感心した。
 これが私の今年上半期の2番目です。

Qui-Ta

(『サーキットの鹿』パンフレット掲載のものを一部改稿)

『贋作「デカダン抗議」』

 物語は私が、十二歳の冬のことであった。月曜夜8時から10チャンネルで鹿賀丈史を観ながら「時は金なり」と改めて感じ入る一方で、ふと「最近デカダンが足りない」などと思ったりしたものだから、2ちゃんねるを観ることにした。
 いや、それにしても極めてOpenかつClosedなので、外側にいると、お前ら逝ってよしと思うが、内側にいると、只それだけでたおやかにマターリとデカダンである。例えるならば、徹マンした上に開店から閉店まで飯も喰わずにスロット回し続けた結果がプラマイゼロといった気分である。
 とはいえ、かの太宰の言を待つまでもなく、一つの遊蕩のサイトで在るゆえを以て、そのサイトを、デカダンサイトと呼ぶのは、当たるまいと思う。管理人自らがうまい棒好きであることを殊更強調するところからして、彼は何時でも、謂わば、理想サイトを目指してきたつもりに違いないのである。
 大まじめである。私を含め、多くの名無しさん@は一種の理想主義者かもしれない。理想主義者は、悲しい哉、現世に於いてその言動、やや不審、滑稽、ヲタの感をさえ隣人たちに与えている場合が、多いようである。謂わば、かのドン・キホオテである。あの人は、いまでは、全然、Kitty Guyの代名詞である。けれども彼が果たしてキティ飼いであるか、どうかは、それに就いては、理想主義者のみぞよく知るところである。高邁の理想のために、おのれのタイムイズマネーを塵芥の如く投げ打って、自ら2ちゃんねるに萌えた経験の無い人には、ドン・キホオテの血を吐くほどの悲哀が絶対にわからない。耳の痛い仁も、その辺にいるようである。
 私の理想はドン・キホオテのそれに較べて、実に高邁で無い。私は破邪の剣を振って悪者と格闘するよりは、頬の赤い厨房を欺いて煽ることの方を好むのである。理想にも、たくさんの種類があるものである。私はこの理想のために、財を投げ打ち、衣服を投げ打ち、タイムショック21を投げ打ち、全くの清貧になってしまった。そうして、私は、この理想を、仮に名付けて、「ロマンチシズム」と呼んでいた。

              (中略)

 そしていまは、すべてに思い当り、年少のその早合点が、いろいろ複雑に悲しく、けれども、私は、これを、けがらわしい思い出であるとは決して思わない。なんにも知らず、ただ一図に、僕もよごれていると、マジレスしたその夜の私を、いつくしみたい気持ちさえあるのだ。私は、たしかにかの理想主義者にちがいない。嘲うことのできる者は、嘲うがよい(ピュア

2002年 6月吉日 演出家
(太宰治「デカダン抗議」より一部抜粋)

(『サーキットの鹿』チラシ掲載)

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